三権の一つである司法権は裁判所が担っています。
今は裁判所というと絶対的な高度な地位を確立していて、裁判官なんてとてもとてもといった人たちです。
そこにいる人たちはほんとにエリートで頭の良さだけでなくメンタルもとんでもない人たちです。
ありとあらゆる厄介ごとの責任が裁判一人にのしかかっているといる状態です。
ですがそれは今の日本国憲法下で法整備がされた現代でのことです。
実は明治憲法の時代の裁判所の地位は今ほど高くはありませんでした。
その当時の司法権(裁判)は民事裁判と刑事裁判だけで行政事件は別の行政裁判所で行われていました。
それこそほんとのエリートの人たちは行政(官僚など)に行き、そこに行けなかった人たちが裁判官や弁護士というものだったそうです。
しかし日本国憲法下になって全ての裁判は裁判所で一括され司法権が大幅に拡大しました。
特別裁判所はなくなり、行政機関により終審裁判も禁止と条文に明記されています。
終審裁判とは最終決着を裁判することで現在は最高裁判所のみで行われています。
ちなみに特別裁判所とは特別な身分の人や事件についての裁判を行うところです。
平等の原則で司法権についても平等ということになったわけですね。
それでも三権分立による弊害は実はあります。
それは行政が決めたことを裁判所が判断することは難しい事案がかなりあるということです。
これが司法権の限界で、例えば宗教上の問題などもこれにあたります。
因みに裁判所が裁判できるのは法律上の訴訟のみです。
そもそも司法権とは、具体的な争訟について、法を適用し、宣言することによってこれを裁定する国家の作用のことです。
さて法律上の争訟とは、当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、かつ、それが法令を適用することにより終局的に解決することができるもの。をいいます。
この司法権とは、法律上の争訟とは、というのは非常に大事な定義です。
これらにあてはまらないものが司法権の及ばないところになります。
たとえば国会でめちゃくちゃに与党野党が入り乱れ、強行に強行を重ねて法案を成立させたとします。
このような手順で法案成立は公正な手続きとはいえないとして訴え出たとします。
さてここで裁判所が判断できるのは違法か合法かということだけです。
どのような形であってもそれが成立したのであればそれは成立したということで
成立した中で適当か不適当かということは判断できません。
これを自律権の問題といいます。
他にも統治行為についても同様で砂川事件の安保条約について争われた判例があります。
統治行為について争わないと日本ではされていますが、これもずいぶんも古い判例で今は時代も変わりました。
実際に諸外国では統治行為についてもしっかり裁判するように変わってきていています。
それは法の支配を実現しているということです。
日本は実際に司法がいいように行政に使われているばかりで法の支配が実現できていないと言えます。
刑事事件についても同様で、これでは一向に統治行為の独占状態から先に進みません。
個人的には死刑制度も反対で、実際に国際条約では死刑廃止とされています。(日本は批准していません)
しかし日本は検察、警察からの圧力、強制的な自白だらけで冤罪による死刑判決もあります。
そしてこれは冤罪だろうというものでも死刑執行されています。
また凶悪犯でもその終身刑として懲役労働を整備し、労働力として機能するように税金を使って欲しいところです。
あくまで個人的な意見です。
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